父から届いた手紙、大声で泣きながら読んだ手紙。
今日もくすぶり女子。
ブログを書いたら、数名の方がスターをくれた。
その中に一番古い記事にスターをつけてくれた方がいた。
自己紹介。
1年2ヵ月前の記事。
さくっと目を通すと、
今後自分がどうなっていくのか楽しみ!
とかいう希望的観測をぶちまけていたけど、
1年2ヵ月経った今、主観では何ら変わっていない。
他人と比べて自分のクズ具合にがっくり。1日のうち8割くらいの時間がっくりきてる。
→ うん。今もだよ。むしろいまは9割くらいがっくりきてるよ。
夢見がちで甘いんです。ほんとに。 人生楽しきゃいいじゃん!→会社がいや?→だったら辞めちゃえ! みたいな。バカな発想しか今のところできない。
→はい。これも。考え方は変わらないけど、むしろ今はこのときみたいなバカで明るいテンションがない。暗い女だ。
あれ、なんだか記事の方向性が暗くなって来てしまった|д゚)
昨日、父親から手紙が届いた。
4枚綴り。ボリュームぎっしり。
・私の仕事へ対する意識の低さ、覚悟の無さ。
・父と二人の娘(私と姉)が全く違うということ。
・若かりし頃の苦労話。
・頑張るほどに孤独になっていったこと。
読みながらなぜだか涙が止まらなかった。
読み終え、部屋の中で一人で大声で泣いた。
小さな子どもが泣くみたいに。
父はもう70歳になる。
私は両親が40歳を過ぎてから出来た子で、それは過保護に育てられた。
幼少の頃から、両親が仲良かった記憶はなく、いつも喧嘩ばかり、父の怒鳴り声が家の中に響いていた。
父は家にいないことも多かった。それゆえ、私は何かあるといつも母に怒られていた。
ヒステリーな母のことが嫌いだった。私も姉も完全に父派だった。
今となっては母とも仲がいいが、実家にいた18歳まで、思春期の間はずっと母とまともに会話をしていないと思う。
そんな母の性格とは対照的に、父はユーモアあふれる人だった。(過去形になったけど、もちろんまだ生きている)
会社を経営していたこともあってか、そもそも男性とはそういうものなのか、主観的な母とは違って、父は客観的な目線をもっていた。
私が高校生の時に、両親が離婚した。
私にショックという感情はなく、自分の苗字が変わったらクラスのみんなに親が離婚したことがバレるな、どうしよう。という心配ばかりしていた。
幸いなことに苗字は変わらなかったし、いつも喧嘩していた両親が完全に別々に暮らしてくれることで少しほっとした部分があったと思う。
我が家の熟年離婚は、私にとってさほど大きな影響がなかった。
昔から父は家にいないことが多かったし、それに、離婚してからも家族4人で会う機会が度々あった。
変わったことといえば、母の父に対する愚痴が、同居生活ゆえの愚痴から、離婚時に軽くもめたことへの愚痴になったこと位だった。
私が26歳になった今も、私たち姉妹が実家に帰るときは父も家に顔を出すし、ご飯も一緒に食べる。
特殊な家なのかもしれない。
(前置きが長くなっちゃった・・・)
わりとゴタゴタした方の家庭かもしれないけど、私はこの家に生まれて良かったし、大人になった今となっては、父のことも母のことも尊敬している。
特に、芸術家肌の父の話は面白いし、26歳の私よりも明らかに多くのことに興味があるし、やる気もある。
そんな父から1年に2,3回手紙が届く。
内容は様々で、70歳現在も元気でパッション溢れる父からの人生の教訓のようなものだったり、最近の世の流れや若者についてだったり。
軽く読み流すことが大半で、返事を書いたこともなかったと思う。
しかし、今回はそうはいかなかった。
文章の始まりは、先日、父が東京に訪れた時のことだった。
父が趣味で描いている絵の個展が1週間前に京橋であり、そこに姉妹で訪れ、昼食を取った後、3人で私の働くネイルサロンに向かった。
4か月前から私はレンタルスペースで一区画を借り、そこでこじんまりと一人でネイルサロンを始めた。
そこがどんな場所なのか見てみたいという父を連れてきたのだ。
いい場所じゃないか、ここにはこんな物が置けそうだな、
経営者目線でいくつか何かを言っていた。
雑談をしながら、いつもと変わらない空気だった。
後々、手紙を読んで自分が大泣きするなんて夢にも思わなかった。
1枚目。
先日は楽しく過ごせました。と敬語文で和やかに始まった。
しかし椅子や看板、予約の仕組みについて、
数点、指摘がはいった。有り難い意見だ。これもいつものことだった。
2枚目。
1行目から空気感が変わった。敬語なことに変わりはなかったが、
「申し訳ございませんが、私からみると、商売を起こしているようにはみえませんでした。」
何かが私の胸に刺さった。
続けて一言。
「今回、改めてよく解ったことがあります。私の二人の娘は、私とは全く違うということです。」
また、何かが私の胸に刺さった。
尊敬する父から突き放された気持ちがした。
3枚目。
25歳で両親、姉夫婦、兄一家の面倒を見ながら事業を軌道にのせた、父自身の苦労話。社長である祖父に代わり、睡眠時間を削り、やりたい自分の夢も諦め、無我夢中で働いた父。事業が軌道に乗ると急に社長風を吹かせてきたという祖父。
4枚目。
「私は仕事は誰よりもしたかもしれません。しかし孤独でした。私の味方をする者は誰もいませんでした。
人は努力すればするほど、孤独になるような気がします。
実力で這い上がる人が怖いのです。なぜなら、自分にはできないことだから。」
「人には3通りあるような気がします。
1、自分自身で運命を築く人
2、自身の運命を委ねる人
3、築くことも委ねることもできない人
余計なことを多く書きました。参考にならないかもしれませんね。」
涙が止まらなかった。
全てを見透かされていた。自分が恥ずかしくなった。
形だけの、中身がない、おままごとのような私の事業。
自分でも気付いていた。気付かないフリをしてここまで来たのだ。
取り繕おうと必死に纏っていた分厚い何かを一瞬で剥がされた。
経験も活かせるし、どこかに勤めるより自由だろう、お金も稼げそうだ。
甘く、大した覚悟もなく始めた。
お客さんが来なくたって、家賃が安いから大丈夫。
自分を守るために予防線を張った。
お客さんがそれなりに来はじめると、自分の実力が不安になった。逃げたくなった。忙しさからストレスがたまったんだよ、少し休もう。
逃げる自分を正当化した。
父は、努力もせずに自分を正当化して、やったつもりになっている私に喝をいれたかったのだろう。怠惰な姿勢では何も成せないこと。いままで苦労してきた父だから言えること。
今の私は完全に、3つめの"運命を築くことも委ねることもできない人"だ。
一見、運命を築く人になったようで、肝心な中身は薄っぺらで、どっちつかずで、いつも楽な方、傷つかない方を選ぶ。
自分には出来ないことだから、キラキラと前向きに歩いていく人を羨む。
父が書いていることが全て当てはまった。
私は父の子だし、やりたいこともいっぱいある。やろうと思ったら何でもできる。
現実を見ずに、空虚な理想にすがりついていただけだった。
父と私は全く違ったのだ。
ここらでしっかり考え直さなくては。20代後半、
このまま間違えたまま進んだら、何にもできない夢見がちな痛い大人が出来あがる。
自分に嘘つくこと、楽な道を選ぶこと、卒業しよう。
パパ、ありがとう。
手のかかる娘でごめんね。